悲しいのラベル付け

- 付箋のようなもの -

最終回について

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今日は好きな人と東京事変のライブに行く予定だった。

人気バンドの復活ライブ、しかも初日。

もちろんチケットが取れるわけもなく、ふたりで行くことは叶わなかった。

 

東京事変は好きだけど(「私生活」が1番好き)

一緒に行きたかったのは理由があった。

 

もしも一緒に行くことができたら

今後もし会えなくなったとしても

4年に1回、2月29日には私のことを思い出してくれるのではないかと

そんな浅はかなことを考えていたからであった。

 

わたしは彼の記憶の中で生き続けたかった。

 

そんなことは結果論であり、

もし仮に行けていたとしても

次の閏年にはお互いすっかり忘れているかもしれないし

行けなかったけれど

別に閏年以外にも私のことを思い出してくれるかもしれない。

自分以外の人の感情なんて、基本的には触れない物なのだから

こんなことを考えるのは、時間の無駄なのだ。

 

この数日は、ずっと最終回のことを考えている。

それは、この本を読んだからなのであるが

考えれば考えるほど、つらくなってくる。

 

単純に好きで会いたいから、会えなくて苦しいんだったら

相手にそっくりそのまま伝えればいいだけだ。

わたしはあなたが好きだ。だから会いたい。会えなくて苦しい。

あなたからのリアクションが少なくて悲しい。苦しい。

 

でも、そうじゃないとしたら。

わたしがあなたの苦しみを想像して、自分の過去を思い出し

自己投影して勝手につらくなっているだけだとしたら。

 

そうだとしたら、お互いいいことがないから

最終回はなるべく早めに、最小限にとどめておいた方がいい。

傷つきやすいふたりは、いるだけでケアになることもあるけれど

気持ちの分量を少し間違うと、劇薬になる。

どちらも痛めつける。どちらも深く傷を負う。

いつかは癒えるだろうけれど

今の彼にその傷を負わせるのはひどく酷なことに思える。

であれば、わたしから手をひいたほうがいいのではないか、と

この数日、毎日考えている。

 

でも、わたしは好きだから会いたい。

会って話がしたい。触れ合いたい。抱きしめたいし、抱きしめられたい。 

 

4年後の閏年、こんなことを考えていたなんて覚えてるかな。

好きな人のことを想い、こんなに涙を流していたこと。

 

今週のお題「うるう年」

「悲しい」のカテゴライズ

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なぜ悲しくなるのか。

あれだけ悲しい気持ちになるのに、「なぜ」が説明できない。

 

「悲しい」

というひとつの気持ちじゃ、どうやらだめらしい。

 

なぜ悲しくなったのか、どんな時に悲しくなったのか

リアルタイムで思考するのが大切なんだそうな。

 

それが自分にできるのかは今はまったくわからないけれど

「悲しい」という気持ちをカテゴリ分けするのは

ちょっとおもしろそうだと思った。

 

pic. 2020/2/18の夕空

2020-02-17

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傷ついていることを知ること

傷ついていることを知らせることはきっと治療ではなく

癒されるということなんだよな。

 

問題がシェアされることによって

特殊なものが特殊性を失って、世界の一部として受け入れられること

それをもつ「私」も「あなた」も誰かも世界の一部に置きなおされること

傷が消えることではなく、傷があることが

「ただそれだけ」のことになることが、きっと癒しなんだと。